- 2010-03-11 (Thu) 02:36
- 総合
山の活動 第2回【天の古道の初歩き】
今回は、三月七日に催されました、日之影町見立地区から、高千穂町岩戸地区を結ぶ古道復元プロジェクト【天の古道の初歩き】(天の古道実行委員会)をご紹介します。
昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。
その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、今回の【天の古道の初歩き】です。
両地区民が天の古道実行委員会を立ち上げ、昨年末より、地主や古老の証言を元に古道を探しあて、草刈りや倒木の撤去などの整備をし、歩けるようにしました。
当日は、両地区民を中心に百名近くの参加者が集まりました。式典と神事が行なわれたのち、お神酒を飲み、いよいよ道開きです。白装束に身を包んだ先導者のあとを、参加者が歩きます。
全長11kmの行程です(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。
歩きながら、色々と面白い話が聞けました。
湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。
同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
昔はこの道を、牛を引いて歩いたそうで、夜道を歩く場合は松明を片手に歩いたそうです。途中、牛が眠ってしまいそうになると、牛の耳に松明を近づけて起こしました。
月形・日形の道標。
ガマガエルは、こちらの方言でウバドンク。
一緒に歩いた戸高英雄さん(78歳)は、元山師です。山の仕事だったら、今でも若い者には負けん。と、とても達者です。
見立鉱山や林業が盛んだった、昭和30年代、村はとても活気に満ちていました。大分県の佐伯市の魚屋や、富山の薬売り、かるいをしょった野菜売りの行商人たちが、湾洞越を通り村にも来ていたそうです。
戸高さんは、古道は保安道として、保持しておくべきだと仰います。
というのも、この地区は、平成十七年の台風の際、土砂崩れで川上にも、川下にもいけず孤立状態となりました。一ヶ月ほどで仮道が設置されましたが、その間、ヘリコプターがブンブン飛ぶのを見て、もったいないと、思ったそうです。
これがもっと大きな被害で、例えば道路の復旧に一年近くかかる場合、古道が暮らしと生命を守る保安道になるのだと、戸高さんは考えます。
その村に暮らし、山を熟知した戸高さんならではの発想だと、とても感心しました。
小雨はありますが、無事、湾洞峠に到着。半世紀ぶりに、両地区の住民が手を取り合います。左から、笹の戸・工藤敏一公民館長 (高千穂町)、見立・工藤晃一郎公民館長(日之影町)、仲組・甲斐清文公民館長(日之影町)、上永の内・土持耕典公民館長。
みんなで、記念撮影。岩戸側から、住民が迎えに来ました。
見立婦人部が作ってくれたおにぎり。
炭焼き跡。
猪のぬた場。猪が、だにをとるために、泥の上でごろごろします。「のた」とも言い、ここから「のた打ち回る」という言葉が生まれたそうです。
「薩軍敗走路」とありますが、明治10年8月、西南戦争のときに西郷軍がこの道を通りました。他にも、江戸時代には、水戸黄門の助さんのモデルとなったと言われる佐々十竹(別名、佐々介三郎)も、この道を通りました。
小雨と霧の中を歩きます。杉林が幻想的でありますが、一人で歩くと怖かったかも。白装束、本格的な登山着、農作業用のカッパ、服装はまちまちですが、みんな歩くのが達者です。撮影していたら、遅れをとってしまいます。
赤水地点。この辺りは、冷泉が湧き、昔の人は、ここで採れる赤い泥を家に持ち帰り、お風呂にいれたそうです。効能は、皮膚病に効くとのことでした。今でも、洞窟があり、そこには湧き出た水が溜まっていました。
赤水地点で記念撮影。ここまでは、車で上がってくることもできます。
赤水地点から、天岩戸神社までは5km。道は緩やかな下りとなります。
ようやく、岩戸上永の内集落へ。田畑が広がり、その先に民家があります。
岩戸商店街入り口には、『祝 平成の岩戸開 天の古道』の大看板が迎えます。
天岩戸神社へ到着。岩戸側の住民が、カッポ酒と豚汁で、参加者を労います。
岩戸小学校の子どもたちが、神楽を奉納。
最後は、初歩きの成功と、今後の発展を願って、みんなで万歳三唱をしました。
見立公民館長 工藤晃一郎さん(68歳)
天気も何とかもち、予想以上に多くの人たちが参加してくれて、とても驚きました。見立地区の方は、特に過疎と高齢化が進んでいるのですが、本当に五十年ぶりに道が開けたようです。やる気を持って、やれば何でも出来るということが、証明されて良かったと思います。
岩戸門前町づくり委員 甲斐寛美さん(62歳)
岩戸側から、道を整備しましたが、みんなで歩けて嬉しかったです。昔のよしみもありますし、これを機に、繋がれたらいいと思います。
笹の戸公民館長 工藤敏一さん(64歳)
見立の方からお話しがきて、みんなで一緒にやろうということになりましたが、やってみて本当に良かったと思います。昔の人は、知恵と体力で生活道を造ってこられたのだなと、頭が下がる思いがしました。
岩戸の丸菊製菓さんが、振舞った「天の古道」煎餅。
天の古道の初歩き。とても気持ちよく歩けました。暑くもなく、寒くもなく、前日までが雷を伴う豪雨だったので、天気が心配でしたが、小雨が降る程度ですみ安心しました。
歩きながら、自然に癒され、おじいさんの話に癒されました。また、風倒木の実状や珍しい動植物なども見ることができ、とても勉強になりました。
天の古道を知るまで、日之影町の見立地区が旧岩戸村だったことも知りませんでしたし、二つの地区を車で走っても一時間近くかかるので、そのイメージもありませんでした。
山のハイウウェイ。古道から、地理を学び、昔の暮らしを学び、現代に生かすことはたくさんあるのだなと学びました。
天の古道実行委員会では、天岩戸神社までの参道ととらえ、観光資源として紹介していくそうですが、環境学習的なアプローチでも十分、魅力的だと感じました。まだまだ、掘り起こせば、色んな興味深い話が聞けると思います。
次回は、皆さんも初歩きしてみては、いかがでしょうか?きっと、たくさんの気づきがあると思います。
(レポート 藤木哲朗)
今回は、三月七日に催されました、日之影町見立地区から、高千穂町岩戸地区を結ぶ古道復元プロジェクト【天の古道の初歩き】(天の古道実行委員会)をご紹介します。
昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。
その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、今回の【天の古道の初歩き】です。
両地区民が天の古道実行委員会を立ち上げ、昨年末より、地主や古老の証言を元に古道を探しあて、草刈りや倒木の撤去などの整備をし、歩けるようにしました。
当日は、両地区民を中心に百名近くの参加者が集まりました。式典と神事が行なわれたのち、お神酒を飲み、いよいよ道開きです。白装束に身を包んだ先導者のあとを、参加者が歩きます。
全長11kmの行程です(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。
歩きながら、色々と面白い話が聞けました。
湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。
同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
昔はこの道を、牛を引いて歩いたそうで、夜道を歩く場合は松明を片手に歩いたそうです。途中、牛が眠ってしまいそうになると、牛の耳に松明を近づけて起こしました。
月形・日形の道標。
ガマガエルは、こちらの方言でウバドンク。
一緒に歩いた戸高英雄さん(78歳)は、元山師です。山の仕事だったら、今でも若い者には負けん。と、とても達者です。
見立鉱山や林業が盛んだった、昭和30年代、村はとても活気に満ちていました。大分県の佐伯市の魚屋や、富山の薬売り、かるいをしょった野菜売りの行商人たちが、湾洞越を通り村にも来ていたそうです。
戸高さんは、古道は保安道として、保持しておくべきだと仰います。
というのも、この地区は、平成十七年の台風の際、土砂崩れで川上にも、川下にもいけず孤立状態となりました。一ヶ月ほどで仮道が設置されましたが、その間、ヘリコプターがブンブン飛ぶのを見て、もったいないと、思ったそうです。
これがもっと大きな被害で、例えば道路の復旧に一年近くかかる場合、古道が暮らしと生命を守る保安道になるのだと、戸高さんは考えます。
その村に暮らし、山を熟知した戸高さんならではの発想だと、とても感心しました。
小雨はありますが、無事、湾洞峠に到着。半世紀ぶりに、両地区の住民が手を取り合います。左から、笹の戸・工藤敏一公民館長 (高千穂町)、見立・工藤晃一郎公民館長(日之影町)、仲組・甲斐清文公民館長(日之影町)、上永の内・土持耕典公民館長。
みんなで、記念撮影。岩戸側から、住民が迎えに来ました。
見立婦人部が作ってくれたおにぎり。
炭焼き跡。
猪のぬた場。猪が、だにをとるために、泥の上でごろごろします。「のた」とも言い、ここから「のた打ち回る」という言葉が生まれたそうです。
「薩軍敗走路」とありますが、明治10年8月、西南戦争のときに西郷軍がこの道を通りました。他にも、江戸時代には、水戸黄門の助さんのモデルとなったと言われる佐々十竹(別名、佐々介三郎)も、この道を通りました。
小雨と霧の中を歩きます。杉林が幻想的でありますが、一人で歩くと怖かったかも。白装束、本格的な登山着、農作業用のカッパ、服装はまちまちですが、みんな歩くのが達者です。撮影していたら、遅れをとってしまいます。
赤水地点。この辺りは、冷泉が湧き、昔の人は、ここで採れる赤い泥を家に持ち帰り、お風呂にいれたそうです。効能は、皮膚病に効くとのことでした。今でも、洞窟があり、そこには湧き出た水が溜まっていました。
赤水地点で記念撮影。ここまでは、車で上がってくることもできます。
赤水地点から、天岩戸神社までは5km。道は緩やかな下りとなります。
ようやく、岩戸上永の内集落へ。田畑が広がり、その先に民家があります。
岩戸商店街入り口には、『祝 平成の岩戸開 天の古道』の大看板が迎えます。
天岩戸神社へ到着。岩戸側の住民が、カッポ酒と豚汁で、参加者を労います。
岩戸小学校の子どもたちが、神楽を奉納。
最後は、初歩きの成功と、今後の発展を願って、みんなで万歳三唱をしました。
見立公民館長 工藤晃一郎さん(68歳)
天気も何とかもち、予想以上に多くの人たちが参加してくれて、とても驚きました。見立地区の方は、特に過疎と高齢化が進んでいるのですが、本当に五十年ぶりに道が開けたようです。やる気を持って、やれば何でも出来るということが、証明されて良かったと思います。
岩戸門前町づくり委員 甲斐寛美さん(62歳)
岩戸側から、道を整備しましたが、みんなで歩けて嬉しかったです。昔のよしみもありますし、これを機に、繋がれたらいいと思います。
笹の戸公民館長 工藤敏一さん(64歳)
見立の方からお話しがきて、みんなで一緒にやろうということになりましたが、やってみて本当に良かったと思います。昔の人は、知恵と体力で生活道を造ってこられたのだなと、頭が下がる思いがしました。
岩戸の丸菊製菓さんが、振舞った「天の古道」煎餅。
天の古道の初歩き。とても気持ちよく歩けました。暑くもなく、寒くもなく、前日までが雷を伴う豪雨だったので、天気が心配でしたが、小雨が降る程度ですみ安心しました。
歩きながら、自然に癒され、おじいさんの話に癒されました。また、風倒木の実状や珍しい動植物なども見ることができ、とても勉強になりました。
天の古道を知るまで、日之影町の見立地区が旧岩戸村だったことも知りませんでしたし、二つの地区を車で走っても一時間近くかかるので、そのイメージもありませんでした。
山のハイウウェイ。古道から、地理を学び、昔の暮らしを学び、現代に生かすことはたくさんあるのだなと学びました。
天の古道実行委員会では、天岩戸神社までの参道ととらえ、観光資源として紹介していくそうですが、環境学習的なアプローチでも十分、魅力的だと感じました。まだまだ、掘り起こせば、色んな興味深い話が聞けると思います。
次回は、皆さんも初歩きしてみては、いかがでしょうか?きっと、たくさんの気づきがあると思います。
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