山の活動
山の活動 第5回【五ヶ瀬町新緑会・青柳製釜炒り茶手炒り製法】
- 2010-05-20 (Thu)
- 総合
山の活動 第5回【五ヶ瀬町新緑会・青柳製釜炒り茶手炒り製法】
今回ご紹介するのは、五月二日、夏も近づく八十八夜の日に、五ヶ瀬町物産センターごかせで催されました、新緑会(五ヶ瀬町茶業青年部)による青柳製釜炒り茶手炒り製法実演です。
五ヶ瀬町は、釜炒り茶生産量日本一のお茶どころ。標高700~800メートルの山間・谷間には、目に鮮やかな新緑の茶葉が輝いています。その茶葉を原料にした釜炒り茶は、香り豊かで大変味わい深いものです。
青柳製釜炒り茶手炒り製法とは、お茶づくりに機械化が導入される昭和30年代後半まで、五ヶ瀬町で一般的に広まっていた、手炒りによる伝統的な製茶技術です。
全国でもほとんど廃れてしまったであろう製茶技術を新緑会の皆さんが、現在の自分たちの製茶技術の向上に役立てる目的として今に伝えています。
ちなみに、青柳とは、宮崎・熊本の山間部でつくられる釜炒り茶のことです。
今回ご紹介するのは、五月二日、夏も近づく八十八夜の日に、五ヶ瀬町物産センターごかせで催されました、新緑会(五ヶ瀬町茶業青年部)による青柳製釜炒り茶手炒り製法実演です。
五ヶ瀬町は、釜炒り茶生産量日本一のお茶どころ。標高700~800メートルの山間・谷間には、目に鮮やかな新緑の茶葉が輝いています。その茶葉を原料にした釜炒り茶は、香り豊かで大変味わい深いものです。
青柳製釜炒り茶手炒り製法とは、お茶づくりに機械化が導入される昭和30年代後半まで、五ヶ瀬町で一般的に広まっていた、手炒りによる伝統的な製茶技術です。
全国でもほとんど廃れてしまったであろう製茶技術を新緑会の皆さんが、現在の自分たちの製茶技術の向上に役立てる目的として今に伝えています。
ちなみに、青柳とは、宮崎・熊本の山間部でつくられる釜炒り茶のことです。
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山の活動 第4回【日之影町中川集落 チューリップの里づくり】
- 2010-04-12 (Mon)
- 総合
山の活動 第4回【日之影町中川集落・チューリップの里づくり】
今回ご紹介するのは、【日之影町中川集落・チューリップの里づくり】です。
日之影町七折中川集落は、国道218号線青雲橋(水面からの高さ東洋一・137m)から、林道竹の原中川線を10kmほど行った場所にあります。矢筈岳(666m)、比叡山(918m)を正面にむかえ、ダイナミックな景色がすばらしい山間に開けた集落です。
7世帯24人が暮らす小さな集落ですが、集落をあげて取り組んでいる【チューリップの里づくり】が、人々の注目を集めています。期間中、咲き誇るチューリップ2,500本!山間の手作りのフラワーショーを求めて、県内外各地から訪れる観光客数は、のべで三~四千人とも。4月上旬(今年は、4月11日)に行われるチューリップ祭りでは、二千人もの観光客が訪れるそうです。
中川集落へ向かう途中の眺め。山また山。山桜は盛りをすぎた頃。
【チューリップ会場】
それでは、満開のチューリップをお楽しみください。
陽気に誘われて、カエルも顔をだします。
菜の花もきれい。
チューリップ会場。右奥の山が矢筈岳(666m)、左が比叡山(918m)。
【中川集落の皆さん】
手作りの「ふつだご」(よもぎもち)と、地どれの竹の子。
中川秀一さん、甲斐イシノさん。
中川秀一さん(60歳)
稲刈りが終わって、7戸(24人)で、球根を植えます。自分たちでできることだけなのですが、町内外のお客さんと、触れ合えるのが楽しいですね。日之影町の人でも、初めてここに来たという人が多くて、矢筈岳と、比叡山のこの景色を見て、良いとこじゃ~と、驚きますね。住んでおったら、毎日のことじゃから、気づかんのかもしれません。
この「ふつだご」(よもぎもち)は、朝、作りました。山で採れたきれいなよもぎを使っちょるから美味しいですよ。
甲斐イシノさん(81歳)
昔は、もっと山の中で、道も悪かったですわ。主人と農業をしちょりが、一年のうちでこの季節が一番楽しい。家から、大勢のお客さんが来ちょるのが見えるので、それを見ると嬉しくなります。
中川今朝久さん、美雪さん
中川今朝久さん(62歳)
稲刈りが終わった後の田んぼは牛の飼料用の牧草を育てるだけで寂しいから、チューリップでも植えて見ようと思ったのが、きっかけです。十二年前に、球根を500球植えたのですが、今では、みんなで、2,500球植えています。
元々、花が好きで、チューリップの球根が安かったので始めたのですが、その当時の日之影町長(工藤訓氏)が、見に来てくれて、「自然の良さが分かって、えらいいじゃないか」と、褒めてくれて、それから集落のみんなで取り組むようになりました。
作業があるから、集落内の人が集まって話す機会も増え、生きがいになっています。嫁いだ娘や親戚が帰ってくるのも嬉しいことです。
美雪さん(56歳)
花好きな人が集まっては話に花が咲く。山と花、自然が人を呼ぶ。遠くからでも足を運んでもらえてとても嬉しいです。
5月中旬に球根をあげて、夏は田んぼになります。11月にまた球根を植えまて、3月に草取りをします。きれいに咲いて、人が喜んでくれるのが嬉しいです。植えた苦労が報われます。
中川集落の皆さん、みんなで力を合わせてます!
甲斐サヨコさん(66歳) 写真後列右
お客さんとお話しするのが嬉しいです。木の花のハチミツや、蕎麦、とうきび粉もよく売れます。だんごも人気です。人数の少ない集落ですが、みんなと楽しんでいます。
滝川ヒロ子さん(61歳) 写真後列右から二番目
お客さんが毎年、増えているような気がします。昨年のチューリップ祭りは、二千人ぐらいきました。一年目は、煮しめやお茶を振舞いよったんですが、予想以上にお客さんが多くて、今はしていません。最初に始めた頃には、こんなに来るとは全然想像もしていませんでした。集落内の人は、みんな気持ちの優しい人たちばかりなので、力を合わせてやっています。
夏には田んぼになります。山も美しい中川集落。
(レポート 藤木哲朗)
今回ご紹介するのは、【日之影町中川集落・チューリップの里づくり】です。
日之影町七折中川集落は、国道218号線青雲橋(水面からの高さ東洋一・137m)から、林道竹の原中川線を10kmほど行った場所にあります。矢筈岳(666m)、比叡山(918m)を正面にむかえ、ダイナミックな景色がすばらしい山間に開けた集落です。
7世帯24人が暮らす小さな集落ですが、集落をあげて取り組んでいる【チューリップの里づくり】が、人々の注目を集めています。期間中、咲き誇るチューリップ2,500本!山間の手作りのフラワーショーを求めて、県内外各地から訪れる観光客数は、のべで三~四千人とも。4月上旬(今年は、4月11日)に行われるチューリップ祭りでは、二千人もの観光客が訪れるそうです。
中川集落へ向かう途中の眺め。山また山。山桜は盛りをすぎた頃。
【チューリップ会場】
それでは、満開のチューリップをお楽しみください。
陽気に誘われて、カエルも顔をだします。
菜の花もきれい。
チューリップ会場。右奥の山が矢筈岳(666m)、左が比叡山(918m)。
【中川集落の皆さん】
手作りの「ふつだご」(よもぎもち)と、地どれの竹の子。
中川秀一さん、甲斐イシノさん。
中川秀一さん(60歳)
稲刈りが終わって、7戸(24人)で、球根を植えます。自分たちでできることだけなのですが、町内外のお客さんと、触れ合えるのが楽しいですね。日之影町の人でも、初めてここに来たという人が多くて、矢筈岳と、比叡山のこの景色を見て、良いとこじゃ~と、驚きますね。住んでおったら、毎日のことじゃから、気づかんのかもしれません。
この「ふつだご」(よもぎもち)は、朝、作りました。山で採れたきれいなよもぎを使っちょるから美味しいですよ。
甲斐イシノさん(81歳)
昔は、もっと山の中で、道も悪かったですわ。主人と農業をしちょりが、一年のうちでこの季節が一番楽しい。家から、大勢のお客さんが来ちょるのが見えるので、それを見ると嬉しくなります。
中川今朝久さん、美雪さん
中川今朝久さん(62歳)
稲刈りが終わった後の田んぼは牛の飼料用の牧草を育てるだけで寂しいから、チューリップでも植えて見ようと思ったのが、きっかけです。十二年前に、球根を500球植えたのですが、今では、みんなで、2,500球植えています。
元々、花が好きで、チューリップの球根が安かったので始めたのですが、その当時の日之影町長(工藤訓氏)が、見に来てくれて、「自然の良さが分かって、えらいいじゃないか」と、褒めてくれて、それから集落のみんなで取り組むようになりました。
作業があるから、集落内の人が集まって話す機会も増え、生きがいになっています。嫁いだ娘や親戚が帰ってくるのも嬉しいことです。
美雪さん(56歳)
花好きな人が集まっては話に花が咲く。山と花、自然が人を呼ぶ。遠くからでも足を運んでもらえてとても嬉しいです。
5月中旬に球根をあげて、夏は田んぼになります。11月にまた球根を植えまて、3月に草取りをします。きれいに咲いて、人が喜んでくれるのが嬉しいです。植えた苦労が報われます。
中川集落の皆さん、みんなで力を合わせてます!
甲斐サヨコさん(66歳) 写真後列右
お客さんとお話しするのが嬉しいです。木の花のハチミツや、蕎麦、とうきび粉もよく売れます。だんごも人気です。人数の少ない集落ですが、みんなと楽しんでいます。
滝川ヒロ子さん(61歳) 写真後列右から二番目
お客さんが毎年、増えているような気がします。昨年のチューリップ祭りは、二千人ぐらいきました。一年目は、煮しめやお茶を振舞いよったんですが、予想以上にお客さんが多くて、今はしていません。最初に始めた頃には、こんなに来るとは全然想像もしていませんでした。集落内の人は、みんな気持ちの優しい人たちばかりなので、力を合わせてやっています。
夏には田んぼになります。山も美しい中川集落。
(レポート 藤木哲朗)
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山の活動 第2回【天の古道の初歩き】
- 2010-03-11 (Thu)
- 総合
山の活動 第2回【天の古道の初歩き】
今回は、三月七日に催されました、日之影町見立地区から、高千穂町岩戸地区を結ぶ古道復元プロジェクト【天の古道の初歩き】(天の古道実行委員会)をご紹介します。
昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。
その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、今回の【天の古道の初歩き】です。
両地区民が天の古道実行委員会を立ち上げ、昨年末より、地主や古老の証言を元に古道を探しあて、草刈りや倒木の撤去などの整備をし、歩けるようにしました。
当日は、両地区民を中心に百名近くの参加者が集まりました。式典と神事が行なわれたのち、お神酒を飲み、いよいよ道開きです。白装束に身を包んだ先導者のあとを、参加者が歩きます。
全長11kmの行程です(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。
歩きながら、色々と面白い話が聞けました。
湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。
同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
昔はこの道を、牛を引いて歩いたそうで、夜道を歩く場合は松明を片手に歩いたそうです。途中、牛が眠ってしまいそうになると、牛の耳に松明を近づけて起こしました。
月形・日形の道標。
ガマガエルは、こちらの方言でウバドンク。
一緒に歩いた戸高英雄さん(78歳)は、元山師です。山の仕事だったら、今でも若い者には負けん。と、とても達者です。
見立鉱山や林業が盛んだった、昭和30年代、村はとても活気に満ちていました。大分県の佐伯市の魚屋や、富山の薬売り、かるいをしょった野菜売りの行商人たちが、湾洞越を通り村にも来ていたそうです。
戸高さんは、古道は保安道として、保持しておくべきだと仰います。
というのも、この地区は、平成十七年の台風の際、土砂崩れで川上にも、川下にもいけず孤立状態となりました。一ヶ月ほどで仮道が設置されましたが、その間、ヘリコプターがブンブン飛ぶのを見て、もったいないと、思ったそうです。
これがもっと大きな被害で、例えば道路の復旧に一年近くかかる場合、古道が暮らしと生命を守る保安道になるのだと、戸高さんは考えます。
その村に暮らし、山を熟知した戸高さんならではの発想だと、とても感心しました。
小雨はありますが、無事、湾洞峠に到着。半世紀ぶりに、両地区の住民が手を取り合います。左から、笹の戸・工藤敏一公民館長 (高千穂町)、見立・工藤晃一郎公民館長(日之影町)、仲組・甲斐清文公民館長(日之影町)、上永の内・土持耕典公民館長。
みんなで、記念撮影。岩戸側から、住民が迎えに来ました。
見立婦人部が作ってくれたおにぎり。
炭焼き跡。
猪のぬた場。猪が、だにをとるために、泥の上でごろごろします。「のた」とも言い、ここから「のた打ち回る」という言葉が生まれたそうです。
「薩軍敗走路」とありますが、明治10年8月、西南戦争のときに西郷軍がこの道を通りました。他にも、江戸時代には、水戸黄門の助さんのモデルとなったと言われる佐々十竹(別名、佐々介三郎)も、この道を通りました。
小雨と霧の中を歩きます。杉林が幻想的でありますが、一人で歩くと怖かったかも。白装束、本格的な登山着、農作業用のカッパ、服装はまちまちですが、みんな歩くのが達者です。撮影していたら、遅れをとってしまいます。
赤水地点。この辺りは、冷泉が湧き、昔の人は、ここで採れる赤い泥を家に持ち帰り、お風呂にいれたそうです。効能は、皮膚病に効くとのことでした。今でも、洞窟があり、そこには湧き出た水が溜まっていました。
赤水地点で記念撮影。ここまでは、車で上がってくることもできます。
赤水地点から、天岩戸神社までは5km。道は緩やかな下りとなります。
ようやく、岩戸上永の内集落へ。田畑が広がり、その先に民家があります。
岩戸商店街入り口には、『祝 平成の岩戸開 天の古道』の大看板が迎えます。
天岩戸神社へ到着。岩戸側の住民が、カッポ酒と豚汁で、参加者を労います。
岩戸小学校の子どもたちが、神楽を奉納。
最後は、初歩きの成功と、今後の発展を願って、みんなで万歳三唱をしました。
見立公民館長 工藤晃一郎さん(68歳)
天気も何とかもち、予想以上に多くの人たちが参加してくれて、とても驚きました。見立地区の方は、特に過疎と高齢化が進んでいるのですが、本当に五十年ぶりに道が開けたようです。やる気を持って、やれば何でも出来るということが、証明されて良かったと思います。
岩戸門前町づくり委員 甲斐寛美さん(62歳)
岩戸側から、道を整備しましたが、みんなで歩けて嬉しかったです。昔のよしみもありますし、これを機に、繋がれたらいいと思います。
笹の戸公民館長 工藤敏一さん(64歳)
見立の方からお話しがきて、みんなで一緒にやろうということになりましたが、やってみて本当に良かったと思います。昔の人は、知恵と体力で生活道を造ってこられたのだなと、頭が下がる思いがしました。
岩戸の丸菊製菓さんが、振舞った「天の古道」煎餅。
天の古道の初歩き。とても気持ちよく歩けました。暑くもなく、寒くもなく、前日までが雷を伴う豪雨だったので、天気が心配でしたが、小雨が降る程度ですみ安心しました。
歩きながら、自然に癒され、おじいさんの話に癒されました。また、風倒木の実状や珍しい動植物なども見ることができ、とても勉強になりました。
天の古道を知るまで、日之影町の見立地区が旧岩戸村だったことも知りませんでしたし、二つの地区を車で走っても一時間近くかかるので、そのイメージもありませんでした。
山のハイウウェイ。古道から、地理を学び、昔の暮らしを学び、現代に生かすことはたくさんあるのだなと学びました。
天の古道実行委員会では、天岩戸神社までの参道ととらえ、観光資源として紹介していくそうですが、環境学習的なアプローチでも十分、魅力的だと感じました。まだまだ、掘り起こせば、色んな興味深い話が聞けると思います。
次回は、皆さんも初歩きしてみては、いかがでしょうか?きっと、たくさんの気づきがあると思います。
(レポート 藤木哲朗)
今回は、三月七日に催されました、日之影町見立地区から、高千穂町岩戸地区を結ぶ古道復元プロジェクト【天の古道の初歩き】(天の古道実行委員会)をご紹介します。
昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。
その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、今回の【天の古道の初歩き】です。
両地区民が天の古道実行委員会を立ち上げ、昨年末より、地主や古老の証言を元に古道を探しあて、草刈りや倒木の撤去などの整備をし、歩けるようにしました。
当日は、両地区民を中心に百名近くの参加者が集まりました。式典と神事が行なわれたのち、お神酒を飲み、いよいよ道開きです。白装束に身を包んだ先導者のあとを、参加者が歩きます。
全長11kmの行程です(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。
歩きながら、色々と面白い話が聞けました。
湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。
同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
昔はこの道を、牛を引いて歩いたそうで、夜道を歩く場合は松明を片手に歩いたそうです。途中、牛が眠ってしまいそうになると、牛の耳に松明を近づけて起こしました。
月形・日形の道標。
ガマガエルは、こちらの方言でウバドンク。
一緒に歩いた戸高英雄さん(78歳)は、元山師です。山の仕事だったら、今でも若い者には負けん。と、とても達者です。
見立鉱山や林業が盛んだった、昭和30年代、村はとても活気に満ちていました。大分県の佐伯市の魚屋や、富山の薬売り、かるいをしょった野菜売りの行商人たちが、湾洞越を通り村にも来ていたそうです。
戸高さんは、古道は保安道として、保持しておくべきだと仰います。
というのも、この地区は、平成十七年の台風の際、土砂崩れで川上にも、川下にもいけず孤立状態となりました。一ヶ月ほどで仮道が設置されましたが、その間、ヘリコプターがブンブン飛ぶのを見て、もったいないと、思ったそうです。
これがもっと大きな被害で、例えば道路の復旧に一年近くかかる場合、古道が暮らしと生命を守る保安道になるのだと、戸高さんは考えます。
その村に暮らし、山を熟知した戸高さんならではの発想だと、とても感心しました。
小雨はありますが、無事、湾洞峠に到着。半世紀ぶりに、両地区の住民が手を取り合います。左から、笹の戸・工藤敏一公民館長 (高千穂町)、見立・工藤晃一郎公民館長(日之影町)、仲組・甲斐清文公民館長(日之影町)、上永の内・土持耕典公民館長。
みんなで、記念撮影。岩戸側から、住民が迎えに来ました。
見立婦人部が作ってくれたおにぎり。
炭焼き跡。
猪のぬた場。猪が、だにをとるために、泥の上でごろごろします。「のた」とも言い、ここから「のた打ち回る」という言葉が生まれたそうです。
「薩軍敗走路」とありますが、明治10年8月、西南戦争のときに西郷軍がこの道を通りました。他にも、江戸時代には、水戸黄門の助さんのモデルとなったと言われる佐々十竹(別名、佐々介三郎)も、この道を通りました。
小雨と霧の中を歩きます。杉林が幻想的でありますが、一人で歩くと怖かったかも。白装束、本格的な登山着、農作業用のカッパ、服装はまちまちですが、みんな歩くのが達者です。撮影していたら、遅れをとってしまいます。
赤水地点。この辺りは、冷泉が湧き、昔の人は、ここで採れる赤い泥を家に持ち帰り、お風呂にいれたそうです。効能は、皮膚病に効くとのことでした。今でも、洞窟があり、そこには湧き出た水が溜まっていました。
赤水地点で記念撮影。ここまでは、車で上がってくることもできます。
赤水地点から、天岩戸神社までは5km。道は緩やかな下りとなります。
ようやく、岩戸上永の内集落へ。田畑が広がり、その先に民家があります。
岩戸商店街入り口には、『祝 平成の岩戸開 天の古道』の大看板が迎えます。
天岩戸神社へ到着。岩戸側の住民が、カッポ酒と豚汁で、参加者を労います。
岩戸小学校の子どもたちが、神楽を奉納。
最後は、初歩きの成功と、今後の発展を願って、みんなで万歳三唱をしました。
見立公民館長 工藤晃一郎さん(68歳)
天気も何とかもち、予想以上に多くの人たちが参加してくれて、とても驚きました。見立地区の方は、特に過疎と高齢化が進んでいるのですが、本当に五十年ぶりに道が開けたようです。やる気を持って、やれば何でも出来るということが、証明されて良かったと思います。
岩戸門前町づくり委員 甲斐寛美さん(62歳)
岩戸側から、道を整備しましたが、みんなで歩けて嬉しかったです。昔のよしみもありますし、これを機に、繋がれたらいいと思います。
笹の戸公民館長 工藤敏一さん(64歳)
見立の方からお話しがきて、みんなで一緒にやろうということになりましたが、やってみて本当に良かったと思います。昔の人は、知恵と体力で生活道を造ってこられたのだなと、頭が下がる思いがしました。
岩戸の丸菊製菓さんが、振舞った「天の古道」煎餅。
天の古道の初歩き。とても気持ちよく歩けました。暑くもなく、寒くもなく、前日までが雷を伴う豪雨だったので、天気が心配でしたが、小雨が降る程度ですみ安心しました。
歩きながら、自然に癒され、おじいさんの話に癒されました。また、風倒木の実状や珍しい動植物なども見ることができ、とても勉強になりました。
天の古道を知るまで、日之影町の見立地区が旧岩戸村だったことも知りませんでしたし、二つの地区を車で走っても一時間近くかかるので、そのイメージもありませんでした。
山のハイウウェイ。古道から、地理を学び、昔の暮らしを学び、現代に生かすことはたくさんあるのだなと学びました。
天の古道実行委員会では、天岩戸神社までの参道ととらえ、観光資源として紹介していくそうですが、環境学習的なアプローチでも十分、魅力的だと感じました。まだまだ、掘り起こせば、色んな興味深い話が聞けると思います。
次回は、皆さんも初歩きしてみては、いかがでしょうか?きっと、たくさんの気づきがあると思います。
(レポート 藤木哲朗)
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